「徐福と一枚の鏡」
長田金男
徐福伝説
日本各地に数多くの徐福に関する伝説・遺跡が存在しているが、この山梨県にも幾つかのそれがあり、特に富士山北麓に集中している。
今回はそれらの場所の伝承・伝説ではなく、西八代郡三珠町大塚の鳥居原古墳(狐塚古墳)から出土した一枚の古銅鏡から考察したい。
鳥居原古墳(狐塚古墳)の銅鏡「赤烏元年鏡」
この古墳から明治27年に一枚の銅鏡が発見された。
時代をかさねての調査・研究により中国三国時代(220~280)の呉(ご)の赤烏(せきう)元年(238)の銘を持つもので、現在日本でただ1枚しか発見されていない鏡であることが判明した。
鏡の直径は12,55センチの四神四獣鏡で、半円方形の帯部をめぐる銘文は

『赤烏元年五月廿五丙午、造作明、百凍青銅、服者君候、宜子孫、寿満年』
(九州大学の岡崎敬教授の調査研究による)
とあり、昭和54年6月6日に国の重要文化財に指定され、現在は東京国立博物館にて保管されている。

なぜ中国三国時代(呉・蜀・魏)の呉の「赤烏元年鏡」が、この多くの山に囲まれた古代甲斐の国にもたらされたのか、いくつかの山梨の歴史・古代史の記述をみても一様に謎として今後の研究を望んでいる。
「赤烏元年鏡」は直接中国三国時代に渡来した
「赤烏元年鏡」渡来に関しては二つの考え方がある。
一、赤烏元年の時代に渡来したのではなく、相当の年月が経過したのち、機内の大和朝廷から甲斐の豪族に下賜されたものである。
二、赤烏元年の時代に直接、古代甲斐の国にもたらされた。
以上、二つの考え方があり現在の主な見方は
一、の機内の大和朝廷から甲斐の豪族に下賜されたものであるということが無難な考え方として支持されている様であるが、本稿は二、の中国三国時代に渡来したとの観点から考察していきたい。
「赤烏元年鏡」が作られた中国の時代背景
赤烏元年は呉の年号で西暦二三八年であり、中国三国時代の渦中であった。
中国三国時代(二二〇~二八〇)とは、前漢・後漢あわせて約四〇〇年続いた漢王朝も二世紀後半から乱れはじめ、一八四年に張角を指導者とした太平道(道教)の反乱、これを黄巾の乱と呼びそれをきっかけに中国が魏・蜀・呉の三国に分かれ天下取りの戦をした六〇年間の時代である。
晋の時代(西晋)の陳寿(二三三~二九七)によってこの三国時代の歴史が記されたのが『三国志』である。
「魏志」三〇巻、「蜀志」一五巻、呉志二〇巻、計六五巻、この中の「魏志」の東夷伝が有名な「魏志倭人伝」であり、邪馬台国論争は今だ続いている。
「魏志倭人伝」 呉の赤烏元年・魏の景初二年の親魏倭王卑弥呼
では、「魏志倭人伝」のなかではさきの呉の赤烏元年(二三八)と同年の記述はどの様になっているのか。
呉の赤烏元年(二三八)と同年の魏の年号は景初二年にあたり以下の記述がある。
『景初二年六月、倭の女王は、大夫難升米らを遣わした。まず郡に行って、天子に拝謁し朝献したいことを希望した。太守の劉夏は、役人を派遣し、引率して王都に送らせた。
その年の十二月、詔書を出し、倭の女王に伝えるため言った。
 
  親魏倭王卑弥呼に任命する。
  ~ 中略 ~
  汝を親魏倭王として金印紫綬を与えようと思う。
  ~ 中略 ~
  白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠・鉛丹それぞれ五十斤与えよう』
以上中略した部分もあるが、ここで注目すべき記述は邪馬台国の卑弥呼を「親魏倭王」と認証し金印紫綬を下賜する点である。
魏が他国に与えた爵位の中では最高のものであり、中国周辺諸国の中でこの「親魏~王」という爵位を授与されたのは邪馬台国の卑弥呼の「親魏倭王」以外には中国の西域にあった大月氏(だいげっし)国に二二九年に与えられた「親魏大月氏王」の二例だけである。いかに魏が邪馬台国を重要視していたかがわかる。
  
魏は蜀に対し大月氏と、呉に対し邪馬台国と関係を強化することにより中国全土統一の戦力強化をはかった。
また銅鏡百枚を下賜する記述から、景初および正始年号の三角縁神獣鏡の出土で邪馬台国論争の大きな物証とし重要視されているが、日本全国から三百枚以上の三角縁神獣鏡が出土していることや、中国からは一枚も出土していない点など論議の尽きないところである。
 - ここに記述した景初二年は景初三年の誤りであるとの説が現在の考え方として主流をなしているが、本稿ではどちらもその時代は重大な年であったと認識している。 -
卑弥呼親魏倭王に任ぜられる八年前、呉の孫権、蓬莱を求む
三国時代、魏は景初二年に邪馬台国の卑弥呼に対し「親魏倭王」の称号・金印紫綬・銅鏡百枚を下賜することにより邪馬台国を同盟あるいは服属国として呉に対しての戦力強化をはかった。また邪馬台国も魏の後ろだてが必要であった。
魏が呉に対しての戦略をたてていたように、呉も魏に対抗すべく戦略をたてていた。
陳寿の『三国志』「呉志・孫権伝」のくだり。
「黄竜二年(二三〇年)の春正月、(略) 孫権は将軍衛温、諸葛直ら将兵万人を遣わし、海に出て、夷州および亶州を求めさせた」
亶州は海の中にあり、長老は伝えていう。
『秦始皇帝は神仙の術を持つ徐福に童男女数千人を連れ、蓬莱の神山と仙薬を求めさせたが、彼らはその島に留まって帰らなかった。代々続いて数万家もあり、そこの人は時に会稽に来て取り引きする。会稽の東の県人は海で風に流され、移って亶州に行った者もいる』
その住んでいる所は果てしなく遠く、将軍らはついに亶州に行き着くことができなかった。が、夷州にいくことはでき数千人が帰ってきた。(呉書、巻二、呉主伝)
この黄竜二年(二三〇年)の記述はさきの赤烏元年の八年前のことである。
公孫氏は甲斐の徐福末裔に使者を出す。
なぜ呉の孫権は将軍人を遣わして徐福の末裔を探し求めたのか。
続く・・・・・
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山梨県富士吉田市小明見328 3